豊臣秀吉の名言・格言
(OR books)今、豊臣秀吉が生きていたなら、語りたかったこと、すべて。

お百姓の子供として生まれた豊臣秀吉。父を亡くした後に母と再婚した義父にいじめられるなど、秀吉の幼少期は苦難の連続でした。

しかし持ち前の頭脳と人懐っこさを活かしてどんどん出世していき、ついには天下統一を果たしたのです。秀吉の戦略や秀吉が残した名言は、人との関わり方で悩む現代人や仕事で成功したい人にとって大きなヒントになるでしょう。

現代ビジネスにも通じる豊臣秀吉の格言・名言集

豊臣秀吉の名言① 勝つための戦い方

★負けると思えば負ける、勝つと思えば勝つ。逆になろうと、人には勝つと言い聞かすべし。
★いつも前に出ることがよい。そして戦のときでも先駆けるのだ。

自分にもそう言い聞かせていたのだと思われますが、リーダー・大将として大切な心構えです。

実際、本能寺の変の後の戦(山崎の合戦)では、豊臣軍は明智光秀の軍よりも遥かに少数だったのですが圧勝しました。およそ一日で、中国地方から近畿地方に駆け付けたので疲労困憊していたと思われますが、大将秀吉の強く明確な言葉に軍の士気が大きく上がりました。

豊臣秀吉の名言➁ 強気の言葉

★いくら謙信信玄が名将でも、俺には敵わない。 彼らは早く死んでよかったのだ。生きていれば、必ず俺の部下になっていただろう。

向かうところ敵なしだった秀吉らしい強気の名言です。単に自惚れの言葉ではなく、ともすれば弱気になる自分への叱咤激励であり、気迫の言葉でもあったのでしょう。

豊臣秀吉の名言③ 国を守るには

★主人は無理をいうなるものと知れ。

上に立つものは軍や国を守る責任感から無理難題を言うものだと説いていますが、威圧的で厳しかった織田信長に仕えていた秀吉だからこその説得力です。

豊臣秀吉の名言④ 夢の叶え方

★夢は大きいほど良いというが、わしはすぐ手の届く事を言っている

ひとつの意味は、大きい夢もすぐに手の届くところまできているという軍を動かするためのエネルギーとなる言葉でしょう。

もうひとつは、目先の小さな実績を積み重ねることにより、やがて大きな夢を実現できるという意味もあるでしょう。秀吉の出世の仕方そのものから出た名言とも言えます。小目標を示すことで人間は動きやすくなり、真心を持って誠実に実績を積んで、やがて大きな夢を叶えてまいります。

豊臣秀吉の名言⑤ 考えを練る

★人の意見を聞いてから出る知恵は、本当の知恵ではない。

もつろん人の意見を聞くことも大切です。しかし、最初から人まかせにする前に、自分でしっかりと考え抜くことの重要さが示されています。

豊臣秀吉の名言⑥ 外への視点

★障子を開けてみよ。外は広いぞ。

自分の世界に閉じこもってばかりいないで外の世界に触れてみなさい、視野を広げなさいと教えていただきました。鷲のような目でもって全体を見渡す大局観を持つことの重要さにもつながってゆく名言です。

豊臣秀吉の名言⑦ 敗者へ処遇

★側に置いておそろしい奴は、遠くに飛ばす
★降参した者を殺してはいけません 。

下の言葉は、信長に対して言った言葉とされていますが、敵にも逃げ道を用意してあげるのが大切だと考えていた秀吉らしい言葉です。

豊臣秀吉の名言⑧ 前進の仕方

★何事もつくづくと思い出すべきではない

過去を振り返ることは良いことだけれども、過去への思いだけに留まっていれば、決して前進することができません。

過去の思い出だけに浸っているは、精神的に老いた証拠であり、それではリーダーとして失格になります。過去からは教訓を得て智慧に変えるとともに、未来を拓くためには絶えず前進してゆくことが大切です。

豊臣秀吉の名言⑨ 勇将と良将

★信長公は勇将なり 良将にあらず

人から恐れられるような人は良い武将ではない、人の心に寄り添えて慕われる人こそ良い武将なのだという、徳という観点から信長を評した一節です。

豊臣秀吉の名言⑩  世のために

★世が安らかになるのであれば、わしはいくらでも金を使う

國民が平和に暮らせることを心の底から願っていた、秀吉の本心から出た言葉でしょう。

豊臣秀吉の名言⑪ お金を活かす

★財産を貯め込むのは、良い人材を牢に押し込むようなものだ
★かように年を取って財宝集まり来るをほどこさざれば、慳貪くずれとやらんに遭う由なり

お金は使ってこそ価値が出ます。さらに、現代の経営学では、お金は貯めることよりも何に使うかの方が難しいと言われています。秀吉はお金を生かすことの大切さを十二分に体得して、お金を使うことで世の中が活気づくのを喜びとしていたのでしょう。

豊臣秀吉の名言⑫ 最後の一句

★露と落ち 露と消へにし わが身かな 浪速(なにわ)のことは 夢のまた夢

秀吉が最後に残した一句で、出世を果たした自分の人生もはかないものだ、浪速でのできごとは夢のようだったと自分の人生を振り返っています。ここでいう浪速とは、この世という意味でしょう。

名言の背後としての豊臣秀吉の生い立ち

豊臣秀吉が天下統一を果たしたことはよく知られています。しかし秀吉の人生にはそれ以外にも様々な出来事がありました。

その全てを語るのは困難なので、その中から特に重要な出来事をピックアップして、秀吉の一生をわかりやすく紹介していきます。

・・秀吉の幼少期

織田信秀の足軽兼百姓である父・木下弥右衛門と、母・なかとの間に生まれたのが秀吉です。

当時は日吉丸という名前でした。秀吉が7歳のときに父が亡くなり間もなく母が再婚。

しかし義父から虐待を受け、光明寺へと追いやられてしまいます。

秀吉が10歳になると武士を志すようになり、15歳で静岡の松下加兵衛之網の草履番になります。

・・出世の道を駆け上がる

17歳になると草履番として織田信長に仕えはじめました。

24歳で浅野長勝の養女ねねと大恋愛の末に結婚。

その後29歳で墨俣城を築き36歳で浅井攻めに参加して自分の城を持つなど、出世の道を駆け上がっていきます。

40歳の頃には中国地方を攻略する総司令官に抜擢され、中国地方を平定しました。

・・悲願の天下統一へ

45歳のときに、織田信長が家臣の明智光秀によって襲撃されて命を落とします。

秀吉は明智光秀との山崎の戦いに勝ち、信長のかたき討ちをしました。

その後賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に勝利し大阪城を築城。

向かうところ敵なしだった秀吉は中国地方から関東、東北までを次々と平定し、53歳のときについに天下統一を実現するのです。

プライベートでは53歳のときに鶴松が誕生しますが2歳で亡くなり、甥の秀次を養子に迎え入れます。

・・秀吉の晩年

55歳と60歳のときに2度行った朝鮮出兵は上手くいかず、力を弱めていきました。

55歳のときに秀頼が生まれましたが、それが原因で秀次が疑心暗鬼になります。

秀吉は秀次に謀反の疑いを持つようになり、秀次に切腹を命じて妻や子供まで殺してしまったのです。

その後かねてから患っていた病気が重くなったことが原因で、61歳のときに伏見城で生涯の幕を閉じました。

豊臣秀吉のエピソード

寒い日に信長の草履を懐で温めていたのは、あまりにも有名なエピソード。しかしそれ以外にも秀吉には様々なエピソードがあります。

秀吉が残した功績と共に紹介していきます。

・・女好きだが妻には優しい

秀吉はとにかく女好きで、複数の女性に言い寄っていました。それでも妻のねねには優しく、大切に扱ったと言われています。

ねねは城主の代行をしたり揉め事の仲裁に入ったりと重要な仕事をしていて皆から尊敬されていたため、秀吉も頭が上がらなかったのでしょう。

・・実は指が6本あった!?

秀吉の指は実は6本あったと言われています。天下統一をしてからは、そのことを周囲に知られないように隠していたようです。

トップに立ったため周りの人には弱みを見せたくなかったのかもしれませんね。

・・人生の前半と後半では性格が違う

農民だったためか天下統一をするまでは人の気持ちに寄り添い、戦いには頭脳で勝つという平和的な思考の持ち主でした。 

・・戦わずして勝つ

頭脳戦によって戦わずして勝つのが秀吉のモットー。

代表的なのが小牧・長久手の戦いです。

徳川家康と信長の次男・信雄を相手に戦った際、膠着状態の中で秀吉が信雄に「伊賀と伊勢の領土の半分をあげるよ」と言ったことで、結果的に秀吉が勝利したと言われています。

・・奇抜な作戦で勝利

備中高松城の戦いの際は、水攻めの作戦により勝利をしました。

川をせき止めて高松城に一気に流し、城を孤立させたのです。兵士は外に出ることも入ることもできないため、結局城主が降伏しました。

豊臣秀吉の名言は現代リーダーへのメッセージ

農民から織田信長の家臣となり、次々と手柄をあげていった豊臣秀吉。

奇抜ながらもなるべく血を流さない戦わずして勝つという戦略で、天下統一を成し遂げたと言われています。

亡くなる前は悪霊のようになっていたとも言われていますが、天下統一を果たした後は天下人の重圧に耐えるのに必死だったのかもしれません。

しかし秀吉の名言や格言は今も語り継がれ、多くのビジネスパーソンの役に立っています。

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