西郷隆盛の名言散歩

「西郷どん」で知られる西郷隆盛は、幕末を代表する偉人の1人です。薩摩藩、今でいう鹿児島県の生まれで、上野公園の銅像でもよく知られています。

幕末や明治維新の時の 多くの歴史的事件に関わり 、仲間とやり遂げた仕事として、 薩長同盟を締結し、さらには江戸城無血開城も果たしました。

鹿児島県を愛し、51歳で自決するまで国を良くするために行動した西郷隆盛。その愛溢れる行動や人柄は、今、現在も多くの人に愛され続けています。

その人気の秘密とは何か。様々な格言や名言、プロフィーやエピソードなどから、西郷隆盛の人徳について感じ取ってまいりましょう。

名言の多い西郷隆盛のプロフィール

それではまず、 西郷隆盛の経歴、生い立ちなどからその人生を振り返ってみます。

  ・・生まれから表舞台に出るまで

西郷隆盛は1827鹿児島県下鍛冶屋町に生まれました。

薩摩藩の下級武士の家で育ち、生活は非常に貧しいものでした。子どもの頃に喧嘩の仲裁に入り腕を怪我したため、武術の道へ進むことを諦め勉学に励んでいました。

下級武士の生まれで身分が高いとは言えませんでしたが、18歳の時に薩摩藩の仕事をするようになりました。今で言う公務員のような仕事です。

そして10年間農民から年貢を集める薩摩藩の仕事に従事し、農民が苦しむ様子を見てきたことがきっかけで農政に関する嘆願書を提出します。

薩摩藩主である島津斉彬は嘆願書を見るとともに 、これまでの西郷隆盛の実直で誠実な仕事ぶりの評価もあって、1854年に 参勤交代のお供として選びます。そして江戸に連れていってさまざまな仕事を与えました。

島津斉彬に忠誠を誓った西郷隆盛でしたが、斉彬が急死した際には未来を悲観して自殺を図ります。一命を取り留めて奄美大島で療養した後に鹿児島へと戻り、その後は南の島を転々としました。

しかし子どもの頃学問に励んでいたため島でも塾を開き才能を開花させていました。 島を転々としている間に世間では多くの事件が起きていて、薩摩藩内部では西郷隆盛を藩に呼び戻そうとする動きがありました

薩摩藩に連れ戻された後の 1864年には薩摩郡を率いる存在となり、 1866年には現在も歴史の授業で習うほど有名な薩長同盟を結びます。だんだんと人を導くという才能は大きく開花させ、やがては明治維新に向かって行動を起こしてまいります。

・・江戸城無血開城から晩年

王政復古の大号令では新政府軍を率い、戊辰戦争でも活躍し、最終的には江戸城無血開城を果たします。

当初、新政府軍は江戸城を襲撃して落とす予定でしたが、西郷隆盛と勝海舟が交渉を行うことで武力を使うことなく、平和的に江戸幕府が終わりを迎えたのです。

江戸幕府が終わり新しい政府ができあがると、そこでも西郷隆盛は活躍します。廃藩置県などの制度を作ったり、政府の最高責任者になったりと、新政府も西郷隆盛を必要としていたことがわかります。

しかし政府の要人たちと意見が対立するようになり、西郷隆盛は薩摩に戻って私学校を設立します。

その私学校には通常の勉強以外に海外への留学制度などもあり、私学校の卒業者は鹿児島県の要職つくようになりました。

そこで教育を行っていたのですが、 私学校の出身者が要職の割合を占めて反政府を掲げるようになったため、 政府との間で西南戦争が勃発します。

この戦争に参加していた西郷隆盛でしたが、1877年に政府軍に追い詰められた西郷隆盛は924日、自決によりこの世を去りました。

国のために尽力してきた西郷隆盛ですが、最後はその国によって死を迎えるという悲しい結末です。

ですがその偉業を讃えられ、今でも銅像が建てられたりと日本人の心に強く残る存在となりました。

西郷隆盛の政治・生き方・心の名言

 西郷隆盛の言葉で一番知られているものは「敬天愛人」です。天を敬い人を愛するという意味で、現代でも企業理念として敬天愛人を掲げている企業は多くあります。

他にどのような言葉を残したのか具体的にご紹介します。

西郷隆盛の名言:政治に関すること

名言①・文明とは正義の広く行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない。

時代の変化のなかに駆け抜け、政治家としての在り方を求め続けるなかに生まれた名言です。

政治の表現としての文明とは豪華さや華美さを表すものではありません。つまり、政治家とは、私腹を肥やして力をアピールする人ではなく、自分の利害に関係なく、公正無私であって、正義を実現してゆく人であるべきです。

名言➁ ・命も要らず、名も要らず、位も要らず、という人こそ最も扱いにくい人である。だが、このような人こそ、人生の困難をともにすることのできる人物である。またこのような人こそ、国家に偉大な貢献をすることのできる人物である。

国を良くすることを目指して行動していた西郷隆盛は本当は戦争を好みませんでした。西南戦争が勃発するまでは私学校で身命をとして教育に専念していたことからも、名誉や位や己の利得よりも国や子どもたちのために無私の念いで生きていたことがわかります。

名言③ ・どんなに方法や制度のことを論じようとも、それを動かす人がいなければダメである。まず人物、次が手段のはたらきである。人物こそ第一の宝であり、我々は皆人物になるよう心がけなくはならない。

時代を動かした人物の共通点は考えるだけでなく実際に行動に移している、ということです。ほとんどの方が貧しい家庭に生まれましたが、勉学に励み政府や藩のために行動していました

西郷隆盛は高い理想と無私の行動、そしてその器の大きさから多くの人に愛される人柄で、愛称である「西郷どん」には敬意の他に深い親しみも込められています。

西郷隆盛の名言:生き方に関すること

  名言④ ・断じて行えば、鬼神もこれを避ける

鬼神とは恐ろしい力を持つオニガミ(一般的には日本の妖怪と考えられている)のことを指し、強い決意を持って行動すれば鬼神でさえも道を避けてゆきます。

西郷隆盛は身長180センチ、体重100キロを超えていたと言われ、かつ言葉に重厚な重み、迫力がありました。

名言⑤ ・人を言いくるめて、陰でこそこそ事を企てる者は、たとえそれがうまくいったとしても、物事を見抜く力のある者から見れば、醜いことこの上もない。人に提言するときは、公平かつ誠実でなければならない。公平でなければ、すぐれた人の心をつかむことはできないものだ。

西郷隆盛は誠実で仲間思いの人物だったので、表面的にはうまくしていても裏では悪いことをしている人を許せなかったのでしょう。

どの時代にも誠実な行動を見てくれている人は必ずいます。そこに「真」があるならば、真正面からぶつかっていくべきです。

名言⑥ ・自分を愛することは、最もよくないことである。修業ができないのも、ことが成就できないのも、過ちを改めることができないのも、自分の功績を誇って驕り高ぶるのも、みな自分を愛することから生ずることであり、決して自分を甘やかす心を持ってはならない。

ここで言う自分を愛することとは、自分を甘やかすという意味でしょう。自分の能力を正確に把握して鍛錬を続けていく。間違っていたら過ちを認め軌道修正し、コツコツと修行を積めば人として成長できるようになります。問題なのは「己自身との対決」です。

西郷隆盛の名言:心に関すること

名言⑦ ・人を相手にせず、天を相手にして、おのれを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし。
名言⑧・敬天愛人

他人のせいにせず、自分自身と向き合うことが重要だと説いた名言です。人のせいにするのは簡単ですが、自分自身が成長することはありません。

すべてが自己責任として捉えて行動していくことで、自分の至らなさに気づき、さらにチャレンジして駒を進めてゆく。

それができるのは、他人との比較ではなく、心は「天」に向いているから。「天」とは一般的には神様と言ってもいいでしょう。天敬愛人とは、天を深く敬い人をこよなく愛することであり、この名言が西郷隆盛の言動の中心に存在します。

名言⑨ ・この世の中で後の世でも信じ仰がれ、喜んで従おうとするものは、ただ一つ誠の心だけである。昔から父の仇を討った人はたくさんいるが、その中でひとり曾我兄弟だけが、今になっても子どもや女性にいたるまで、知らないものがいないのは、多くの人にぬきんでて誠の心が厚いからである。誠の心がないのに世間の人から誉められるのは偶然の幸運に過ぎない。誠の心が厚ければ、たとえその当時に知る人がなくても、後の世に必ず理解してくれる人があらわれるものだ。

曽我兄弟の仇討ちとは日本三大仇討ちの一つで、仇討の模範とされていました。事件は1193年に源頼朝が巻狩りを行った際に曽我兄弟が父親の仇である工藤祐経を討ったものです。

幼い頃に父親を殺された曽我兄弟は貧しい生活を送る中でも父親の仇討ちを忘れず育ちました。

準備を重ねて巻狩りが行われた晩に工藤祐経を討つことに成功しましたがその場で兄は他の武士に討たれ、弟は捉えられ斬首の刑に処されました。

仇討ちの事件は江戸時代になると歌舞伎や浄瑠璃で取り上げられ人気を集め、現代でも広く知られています。

名言⑩ ・世の中で、人からそしられたり誉められたりするといったことは、塵のように儚く消え去ってしまうものである。

人にそしられることもありますが、それを気に病んでばかりいては前に進みません。また人に褒められると調子に乗ってしまい、心が浮ついている間に立場を奪われてしまうことはよくあります。

儚いものだと理解しておかないと消え去ってしまいます。心がフワフワしないよう、丁寧に誠実な心を持って毎日を過ごしてください。

世の中に残るのは、天下国家のために、世のため人のために尽くした愛の心だけでしょう。

西郷隆盛の格言や名言集⑩~24

★思い切ってやりなさい、責任は私がとる。

部下に対して言った言葉で、経営者やリーダのあるべき姿が提示されています。

★自分の身を慎み、心を正して、君子の体を備えていても、事にあたって、正しく対処できない人は、木の人形と同じだ。

逆を言えば、重大な時に、正しい判断や行動ができない人は、日ごろの修行に問題があり、上辺だけ体裁だけの心の構えだったのかもしれません。己の心の飾りや嘘を発見して身を引き締めて再出発するべきです。

★主君への忠義と親への孝行、他人にめぐみいつくしむという徳目の実践を促すことこそ、政治の基本である。

天下国家のため、人のために動いてこその政治です。自分の利得ばかりを考えたり、空威張りしている政治家は、単なる職業としての政治屋にしか過ぎません。

★正論では革命をおこせない。革命をおこすものは僻論である。

ここでいう正論とは、いつも大多数に巻かれていくようなありふれた常識のことを言うのでしょう。革命は一般的な常識を覆す僻論 、それは真実を追い求めた熱意から生まれてきます。

★急速は事を破り、寧耐は事を成す。

急いだり焦っても物事は成せない、じっくり耐えて黙々と前進してゆくことが肝要です。

★人の意表をつくようなことをして、一時的にいい気分に浸るのは、未熟者のすることで、戒めなければならないことだ。

人の意表をついて凄いと賞賛されていい気になるのは、単に人から褒められたいという気持ちの現れかもしれません。大きなことを成し遂げていくためには、人の評価に関わりなく、己の欲する道を黙々と歩まなければなりません。それを自分自身にも言い聞かせていたのでしょう。

★策略は日常的にすることではない。はかりごとをめぐらしてやったことは、あとから見ると善くないことがはっきりしていて、必ず後悔するものである。

「策士策に溺れる」という言葉もありますが、大きな流れのなかでは策を練らなければなりませんが、日ごろから人の裏をかくような策略ばかりに思いを巡らせていればいつしか邪道に入ることがあり注意することが必要です。

★徳高き者には高き位を、功績多き者には報奨を。

政治家のあるべき姿として、まず「徳」が大事であり、徳高き人が頂点となるべきです。徳とはどれだけ愛の思いがありどれだけ多くの方を真の幸福へと導くことができたかによって決まるでしょう。

そして、徳へと至る過程ではあるけれども、単なる年功序列だけではなく才能があり功績のあるものを賞するべきであるとの政治を収めるシステムが語られています。

★人は天命というものを天から与えられ、それに従い生きているのである。

人は誰でも天命を授けられている存在です。天命とは、天から与えられた命であり、また天から与えられた使命というべきものです。西郷隆盛は使命に従って生きました。

それでは、自分の使命とは何か。それは難しい問いかけでしょう。しかし、天命を見いだすてがかりのひとつは、何かをやりたいという心の中のうずきにあるでしょう。そしてそれは、天命というのですから、自分の利益だけではなく人々の幸福のためになることでしょう。

いきなり大きなことは難しくても、自分の身の回りのなかから、まずは小さな愛の実践を見いだしてトライしてみると、思わず面白い人生が開けてくるきっかけとなるかもしれません。

★戦争という言葉に怯え、安易な平和を買うことのみに汲々するのは、商法支配所と呼ばれるべきであり、もはや政府と呼ぶべきでない

政府が勇気と誠を持って国難を乗り越えようとしないばかりか、目先の利益だけに捉われて商売の取引(それも心ある商売ではなく)に甘んじていては、本当の政治を行うことができません。

政治家には「知(知恵)・仁(愛)・勇(勇気)」の徳が必要であり、西郷隆盛は、当時の政府の在り方をとても憂いていましたが、これは現代政治にもあてはまるでしょう。

★政治で特に大切なことは、教育文化を盛んにし、軍備を充実させ、農業を奨励するという三つである。

教育は明日の国力の基です。軍は「自分たちの国は自分たちて護る」ために必要です。農業は、国内での自給率を高めるために必要です。この3つとも自国を守り国力を高め素晴らしい国にしてゆくために現代でもなくてはならないものでしょう。

★文明とは正義の広く行われることである。豪壮な邸宅、衣服の華美、外観の壮麗ではない。

本当の文明とは正しいことが行われる世の中のことで、単に贅沢な暮らしができることではありません。

西郷隆盛の知られざるエピソード

西郷隆盛には有名な話の他にもさまざまなエピソードが残されています。

あまり知られていないようなものも含め、代表的なエピソードを見ていきましょう。

西郷隆盛についてより詳しく知ることができ、その人となりが見えてきます。

・・大の写真嫌いだった

西郷隆盛は写真がとても嫌いだったようで、実は顔のわかる写真は1枚も発見されていません。

銅像や肖像画で残っているだけで、私達がイメージする顔が本人の顔なのかもはっきりしていないのが現状です。

なぜそこまで写真が嫌いだったのかはわかっていませんが、本人にとってはとにかく写真を撮影するのが嫌だったようです。 

・・お酒が苦手?

鹿児島というと有名なお酒もあり、銅像から想像する西郷隆盛はお酒も強そうです。

実際には下戸だったようで、お酒はまったく飲まなかったと言われています。下戸というのはとても意外な事実です。

西郷隆盛の名言に触れて天敬愛人で生きよう

西郷隆盛は最後まで日本の未来を案じていました。西南戦争では政府に勝てないとわかっていましたが、仲間のためにも必死に戦ったのです。

西郷隆盛の心情をすべて理解することは難しいでしょう。

しかし、西郷隆盛や坂本龍馬の活躍なくして、明治維新は成功しなかったといえます。日本の形を大きく変えることになった1人で、その活躍のおかげで日本は海外とも対等に渡り合えるようになりました。

そればかりか、西郷隆盛の大きな愛に触れて、未だに人生の励みになったり、どん底から立ち上がるキッツかけとなる人も多いかと思います。

現在も上野公園には西郷隆盛の像が置かれていて、多くの人が立ち止まる場所となっています。 銅像の彼は今、何を語ろうとしているのか。西郷隆盛の生き方や心に関する言葉を心に留めて世のため人のためになることを常に考え誠実な生き方をしていきましょう。

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